かあさんは雨女

語学と育児、その他いろいろ。

中学1年生に、オールイングリッシュの授業は可能か。

こんにちは。梅雨が近づいていますね。

北陸でも、雨が降ったりやんだり、じめじめしています。

我が家ではこの季節に梅仕事をするのが恒例行事なのですが、今年も青梅がたくさん手に入ったので、さっそく梅シロップを仕込んでいます。青梅を洗って水にさらした後、ぎっしりの上白糖で漬け込んで数日放置すれば、梅の果汁がとろりと溶け出して美味なのです。去年は産休前のごあいさつに、職場の先生方に梅シロップを配りました。あれからもう1年経ったのだなあ。早いものです。

 

さて、前回の英語学習記事について、いくつかご指摘をいただきました。

それらに答えつつ、記事の後半では日本の教師の働き方、教育の在り方についての少しスケールの大きい話になりますが、よろしければお付き合いください。

 

まず、politician/statesman問題。

アメリカ英語では、この違いを意識したような用例が数点あるということでした。以下に、紹介していただいた文例を載せます。

 

A politician thinks of the next election. A statesman, of the next generation.

(politicianは次の選挙のことを考え、statesmanは次の世代のことを考える。)

 

まさに、「politicianはお金のためだけに政治をしている」というニュアンスを含んだ表現ですね。

また、"we need statesmen, not politicians(politicianは要らない、statesmanが必要だ)"という表現もあるそうです。

こうなってくると、こんなニュアンスの違いがあるにもかかわらず、報道ではpoliticianが使われていることの方が不思議に思えてきますが、やはり「statesman との対比が行われないかぎり、politicianはニュートラルに政治家を意味する」という解釈でよいのだろう、ということです。

ことばって、意味もニュアンスも場面や時代で変化していくし、本当に難しいものです。私も文句ばっかり言ってちゃいけないな。勉強しつづけよう。

 

他に、「"How are you?"も" I'm fine, thank you. And you?"も、使わなくはない。ただ、この表現のみの画一的な指導になってしまうことが問題なので、場面や文脈に応じて色々な表現を教えるべきだ」という意見もありました。

全くその通りだと思います。

英語の「お元気ですか?」に相当するあいさつ表現は、ざっと思い浮かべただけでも、かなりの種類が存在します。

 

How are you (doing)?

How have you been?

What's up?

How's it going?

How's life?

 

などなど。調べればもっと出てきそうです。どれも少しずつ、使う場面や想定される相手が異なります。しかし私の記憶している限り、中学・高校と6年間英語教育を受けた中で、出会った事のある表現は"How are you?"だけです。この偏りが問題なのです(私の学生時代の話なので、現代では多少改善されているのではないかと思いますが)。

 

私はロシア語を学習していますが、初級テキストの段階でも同じように「お元気ですか?」に相当する表現がいくつも出てきました。私が学習に使っているNHKラジオの「まいにちロシア語」講座でも、講師の先生が「色々なバリエーションがありますが、初級のうちにしっかりおさえておくことで、実際の会話でも落ち着いて受け答えができますから」というようなことをおっしゃっていました。

こういった「実際に話すときに困らないように」という視点が抜け落ちてしまいがちなのが、これまでの英語教育だったのではないかしら、と思うのです。

 

現在、英語教育界では「オールイングリッシュで授業を」という要請が高まっています。文字通り、授業の最初から最後まで、教師は英語のみを使って指導し、生徒も英語で受け答えをするという授業です。

以前、オールイングリッシュを実践している先生の授業を見学したことがあります。なんと、対象は中学1年生。進学校ではなく、ごく普通の公立中学校でしたが、みごとに英語のみでの授業が成立していました。ちょっとその授業の様子を、思い出して書き留めてみます。

 

生徒数は20人。これは普段の学級の半分の数です。この中学校では、英語科の教員を複数配置することで、1クラスを2つに分けて授業することができるようにしていました(チームティーチングの形をとっている学年もあったように思います)。私は正直、「国語科でもそれやってよ…」と思っていましたが(泣)。この「少人数指導」の形も大きなポイントだと思います。

授業の最初に、先生がまず「調子はどう?」と生徒たちに問いかけます。全体に向かって問いかけ、全員が一斉に答えるやり方ではなく、一人ひとりの生徒の席まで行き、目を見て語りかけます。生徒は、それぞれ自分の調子に合わせて「元気です」「ちょっと眠いです」「疲れています」などと、懸命に考えて英語で答えていました(全員にやるわけにいかないので、たぶん3人くらいでしたが)。その答えに対しても、先生が「そっか、疲れてるんだ。部活がんばったんだね」などとテンポよくコメントを返してあげたりしていました。そのつど、生徒には「自分の英語が通じた!」という成功体験の記憶が残るわけです。また、周りの生徒も、そのやり取りに耳を傾けて「生のコミュニケーションを聴き取る」という経験を積み重ねることができます。

ここに書いたのは導入部のみですが、おおむねこのような感じで「プリントを配ります」「小テストをします。紙を裏返して」「名前を書いて」などの指示も全て、テンポ良く英語で行われ、きちんとその指示が通っていました。わからない生徒には、わかる生徒が教えてあげていましたし、それを「私語は禁止」などと咎めるような空気もありませんでした。

 

これを見て、私ははじめ「1年生の授業でオールイングリッシュなんて、無理じゃないの」なんて思っていた自分が恥ずかしくなりました。そして「こういう授業、受けたかった…」と切に思いました。もちろん、このような授業を実践するには高い会話スキルが必要ですし、個々のコミュニケーションを成立させつつ全体をだれさせないテクニックも不可欠です。ですが、こういった授業の中で、少しずつ「自分にも英語ができる」経験を積み重ねるような授業こそが、いま求められているものなのだと思います。

 

ただ、上から号令をかけて「オールイングリッシュをやりなさい」と言うだけでは現場は何も変わらないので(文科省はそういうやり方を通そうとしているようにも思えますが)、きちんと先生方が自分のスキルを磨くことができるような配慮があればいいな、と思っています。具体的には、雑務が多すぎて授業準備が後回しになってしまうような現状を何とかしないと、ということです。

私も、働いていたときは「部活に顔を出し、会議に出席し、教育委員会の調査アンケートに答え、日誌に記入していたらもう21時」みたいなことが日常的に起こっていて、そこから更に授業準備、教材研究をする気力はとうてい絞り出せない、という状態が普通でした(それでも必要なときはやっていましたが)。

ですから、毎日深夜に帰宅して眠るだけの生活を送っている先生に「勉強不足だ!」「ずさんな授業をするな!」などと言うのは、あまりに酷なことだと思うのです。まあそれを言ってくる先輩教師もいましたが、こういう人の言うことを聞いていたら過労死するので、適当に受け流すに越したことはありません。

何にしても、このような「社畜」的生活ではなく、きちんと定時の16時45分に仕事を終え、後の時間を自由に使えるとしたら、自分のスキルを磨くための学習や、視野を広げるための読書に充てる時間も確保できます。まあ眠るのでも趣味の時間にするのでもいいですが、こういう自由時間のない生活では人間の心は荒んでいくので、授業もつまらなくなります。特に経験を重ねれば重ねるほど、「去年やったのと同じでいいや」となり、その時の生徒の個性に合わせて授業をカスタマイズすることができなくなっていきます。

 

根性論で「休まずにやれ!」「学びつづけろ!」と言うことは簡単です。また、全く休まずにものすごい仕事量をこなすことのできるスーパーマンも、たまに存在します(こういう人が、周りにも自分と同じ仕事量を求めたりすると地獄ですね)。ですが、全国に教員は何十万人といるわけで、その何十万人が全員、身体を壊さずにきちんと自分のスキルを磨き、家庭生活も充実させることができる制度が必要なのです。

 

最後に、私の苦手な言葉を紹介します。教育業界でたいへんありがたがられ、名言として語り継がれている言葉ですが、昨今の長時間労働や過労死問題を助長するものだと私は思っています。

それは、「教師は五者たれ」という言葉。教師は五つの側面を持っているべきだ、といいます。ネットで調べれば色々出てきますが、私が研修で聞いた記憶をもとに、あえて自分なりの解釈で解説してみます。

 

①学者。言うまでもなく、豊富な知識を身につけ、学問をきわめること。

②役者。生徒の前では明るく振る舞い、大人のお手本となること。

③易者。生徒の将来を見定め、正しく導くこと。

④医者。心身ともに、生徒の健康に目を配ること。

⑤達者。(「芸者」とも)自分自身が健康であること。

 

いい言葉ですね。あまりに、響きのいい、うつくしい言葉達です。

私がこの言葉に関して思っていることは、ただ一つです。

 

無理だよ!!!!

 

教師は超人ではありません。さっきも言いましたが、何でもかんでも全てこなせる完璧な人間しか教師になれないんなら、夢も希望もありません。教師は凡人でいいんです。凡人なりに、自分のできる範囲で、自分を磨いていける人間であればいい、と私は思っています。というか、そうでも思わないと、教師なんてやってられません。

学者、達者くらいは分かりますが、教師は医者じゃないし、占い師でもありません。本職のお医者さんやカウンセラーさんがいるんだから、教師は自分の本分、授業づくりに集中できれば充分なんじゃないかと思います。二兎を追うものは一兎をも得ずといいますが、五兎をいちどに追うようなことをすれば、どこかが必ず破綻します。人生の限られた時間の中で、できる範囲の努力をしていきたいものです。

 

なんだか規模の大きい話になってしまいましたが、まとめると「にっぽんの先生たちに時間をくれ」「先生たちは時間ができたら、無理のない範囲で自分のスキルを磨いてくれ」ということです。

先生たちに心の余裕ができることで、日本の子どもたちに自信と笑顔が増えていく。私は、そのように思っております。

 

なんだか、いつになくまじめなことを書いてしまいましたが、眠たくなってきたので今日はこのへんで。

またお会いしましょう。