「勉強が好き」と言うと変態扱いされる国、にっぽん。
こんにちは。
もうすぐ10ヵ月の娘、まだハイハイしないのですが、先につかまり立ちをマスターしつつあります。座椅子に座ってダラダラしている私の肩によじ登ってきて目潰しをお見舞いしたり、私の服をめくって腹太鼓を叩いたりしてきます。かわいいです。
さて、スペイン語検定を受ける日が10日後に迫ってまいりました。ドキドキです。昨年受けた6級と比べると、今回の5級は試験範囲となる時制が一気に広がり、語彙も1200語ほど必要になってきますので、少しずつペースを上げて学習に取り組んでいます。
というわけで、これからしばらくはスペイン語の話をすると思うのですが、その前に。
「あれ? この人、こないだロシア語勉強してなかったっけ?」
とお思いの方。いい質問です。ありがとうございます。
私の趣味は、勉強です。
その中でも、とりわけ外国語の勉強が好きなのですが、実は外国語に限らず、色々な分野に手を出して知識を広げるのが大好きです。数学検定や漢字検定など検定試験をしょっちゅう受けていますし、暇さえあれば録り溜めたNHKの教養番組ばかり観ています。大学時代は、学年が上がるほど必修科目が減っていくのをいいことに、文学、哲学・倫理学、歴史学、経済学などなど、専門外の授業にもぐりこんでは講義を聴いていました(ちなみに専門は日本語教育学です)。いま思えば、理系の授業にももっともぐれば良かったとすこし後悔しているくらいです。
と、こういう話をすると、まず受けるリアクションは、
「まじめなんだねえ」
「意識高いねえ」
というもの。
「趣味は勉強」というと、露骨に「この人、変な人だ…」という視線を浴びることもよくあります。どうやら、大人になってまで勉強したい人は少ないらしい。「まじめとかじゃなくて、ただ単純に楽しくって勉強している」ということが、理解されづらいらしい。
そもそも、「勉強が得意な人」のイメージが、あまり良くないらしい。
と、感じることがよくあります。
今回は、このへんのもやもやについて、自分なりに考察してみようと思います。
以前もちらりと書きましたが、私は世間一般にいわれる「いい大学」を出ています。ですが、出身大学を聞かれるのが苦手です。「えっ! かしこいんだね」とか言われると、どうリアクションしていいのかわからないからです。
これが、プロのサッカー選手であれば「昔からスポーツが得意で…」とか、バンド活動でCDが売れた人なら「ギターを弾くのが好きで…」とか言えるのでしょうが、勉強が得意な人が「昔から成績が良くて…」と言うのは許されない空気、これ、何なのでしょうか。ずっと、もやもやしています。出身大学を言った結果「かしこいんだね」と言われた際の模範解答は「勉強くらいしかできなくて…」です。あと、「私、おたくなんです」とか。こういう自虐的な解答が、どうやら好まれるようです。
また、最近よく聞く「意識高い系」という言葉も、学ぶ姿勢をもつ人を小馬鹿にするような響きで使われていますね。私はこの言葉が苦手です。
勉強が好きな人は、変わった人。
勉強しかできない人は、どこか、おかしい人。
そんなふうに思われてしまう風潮が、あるように感じています。
原因の一つは、はっきりしています。それは、みんなが「勉強は辛く、苦しいのを我慢してするもの」だと思っていることです。
本来、新しい知識や考え方を身につけることは楽しいことのはずです。ですが、大人たちはみんな「学校で、やりたくもないことを、無理やりやらされた記憶」または「やらなくて叱られた記憶」が脳にこびりついていて、「勉強は辛いもの、苦しいもの」だと思い込んでいるのです。そんな中で、「その苦しみに堪えて良い成績をとった人」、つまりいわゆる「がり勉」タイプの人に対する歪んだ視線が生まれるのではないでしょうか。「あいつ、すげえ」と思いながらも、「勉強ばかりするヤツは、どこかおかしいに違いない。元気いっぱい遊んだほうが健全だ」というような、倒錯した思いです。
少し前に、こんな広告を目にしました。
某「聞き流すだけ」系、英会話教材のキャッチコピーです(宣伝になるのは嫌なので、名称は伏せておきます。)
「英語、勉強しなくて良かった!」
この教材では、英語の入った音声を聞き流すだけで英語がわかるようになるので、机に向かって「勉強」する必要がないのだ、ということらしいです。楽しく英語を身につけることができるので、辛く苦しい思いをして「勉強」しなくていいし、学生時代に「勉強」をさぼっていたあなたは悪くないんだよ、ということです(あくまで私の解釈ですが)。
私はこのコピーを見たとき、愕然としました。聞き流すだけにしたって、英語を身につけているならば、それは立派な「勉強」じゃないのか。この矛盾に気づいたのか、今ではこのコピーを目にすることはなくなりましたが、これはまさに「勉強」という言葉に付随する悪いイメージを象徴している事例だと思います。
そんなに、日本人は、勉強したくないのか。
かく言う私も、高校までは、勉強が楽しいと思ったことはほとんどありませんでした。「いい高校に入れば、何か変わるかもしれない」「いい大学に入れば…」ずっとそんなことを考えながら、苦しみながら机に向かっていたように思います。
転機が訪れたのは大学時代、シドニーに留学したときのことでした。世界が一気に広がりました。今まで、苦しみながらも身に着けてきた知識が花開き、他の分野の知識とつながって自分の視野を広げていくのがわかりました。語学の知識だけでなく、他の国から来た人と話すのには歴史の知識、科学の知識、そして いっけん関係ないような分野の知識でもたくさん役に立ちました。また、大人になってもなお様々な分野で学ぼうとする人がたくさんいて、そのアプローチの仕方も様々でした。
勉強は、学生だけがするものじゃない。
そう思えたのが、留学での最も大きな収穫でした。
短期留学を含めた休学期間を終え、大学に戻ると、授業を受けることがものすごく楽しくなりました。それまで興味も何もなく適当に専攻を選び、授業をさぼったり、バイトを増やしたり、いいかげんなレポートを書いてやり過ごしたりしていたことの、なんともったいないことか。自分の好きな分野を、好きなだけ学んでいい場所、大学。天国のようなところじゃないか。私は取れる限りの授業を履修しました。専攻も卒論のテーマも変えて一からやり直し、教員免許を取りました。その結果、大学を卒業するのに8年かかりましたが、大学に通うのは本当に楽しくて、毎日が充実していました。ちなみに、本来ならば卒業するはずだった年の4月に夫と入籍しましたが、婚約中にもかかわらず在学を延ばすことを快く受け入れてくれた夫には頭が上がりません。
こうして大学を卒業し教師となった私ですが、連日の残業、週末は部活漬けで、仕事をしながら勉強というのは容易なことではありませんでした。このあたりについては前回記事にも少し書いていますが、教師が自分の学びたいことをゆったりと学べる制度がもっと充実すればいいと思っています。そうして教師4年目に娘を妊娠し、産休に入ったのを機に、また「暇さえあれば勉強」の生活に戻ったというわけです。育児の気分転換にも、ちょうどいいです。
ことわっておきますが、私は他の人と比べて特にまじめだとか、ストイックな性格だということはありません。だらだらと昼寝しながらお菓子を食べるのが大好きですし、できれば楽しいことだけをして生きていきたいと思っています。
そんな私が、なぜ勉強ばかりしているかというと、楽しいからです。
できなかったことができるようになったとき、人間は、快感をおぼえます。RPGのゲームでいうならば、強いボスを倒すために仲間を集め、経験値を貯め、アイテムを手に入れていく作業は楽しいものです。スポーツでも音楽でも、「これがやりたい」と思うとき、人は努力して知識を身につけ、スキルを手に入れます。それは、できなかったことができるようになる快感を得るためではないでしょうか。勉強も同じです。特に外国語の学習は、知識を積み上げた分だけスキルが身につくのがわかりやすく、定期的に検定試験があって目標も立てやすく、旅をする楽しみにもつながるので、ずっと続けています。
先日、NHK Eテレの経済学番組「オイコノミア」で、教育学者の濱中淳子氏がこんなことをおっしゃっていました。
「大学は、仕事で役立つ知識を身につける場所だと思っている人が多い。だから、専攻と直接関係のある仕事に就かない限り、大学教育は役に立たないと言われてしまう。けれど、大学の学びで大切なのは、そこでどれだけ学習したかという経験そのもの。大学で「学習のしかた」を身につけた人は、大学を卒業しても強みをもって生きていける。」
うろ覚えですが、だいたいこんな内容でした。私はまさに、大学で「学習のしかた」を身につけたのだと思います。学びつづけることができれば、人生は、より楽しい。そう思って学びつづけています。
ちなみに今回のサブタイトルに「にっぽん」と入れたのは、諸外国に比べ、社会人になっても大学や大学院で学ぶ人の割合が低いためです。その根底には、上に書いた「勉強への恐怖」が根強くあるためだと、私は思っています(日本人は働きすぎ、というのもありますが)。日本の子どもたちにも「学ぶことはしんどいことじゃなくて、楽しいこと」と思ってもらえるよう、教師としても、一人のおとなとしても、精進してまいりたいと思っております。
では、今日はこのへんで。
次回あたりから、スペイン語検定対策の話をしていきますね。
おやすみなさい。