独りぼっちの誰かのために。〜「チェブラーシカ」でロシア語を学ぶ その④〜
こんにちは。
1歳になったばかりの我が娘・おタマ、日々活発におしゃべりしております。
私「(夫・ナコ太氏の写真を指さして)この人、誰?」
おタマ「ふんじょごぶんご!」
ナコ太氏「そうです、私が ふんじょごぶんご です」
こんな、ゆるい会話を日々楽しんでいます。
(調子が良いときは「パパ」って言ってくれますよ。)
そんなおタマですが、「パパ」の他にも、寝かしつけのときにいつも私が「ねんね」と言うので「ネンネ、ネンネ」と繰り返して言っていたり(でも全然寝ないんですけどね)、私がかばんの中を探して「鍵、ない、ない」と言っていると、おんぶひもで背中にくっついたおタマも一緒に「ナイ、ナイ」と言ってくれたりしています。意味がわかって言っているのかは謎です。あと、こんなに色々言えるのに、なぜ「ママ」を言ってくれないのだ。ぐすん。
あ、ごはんを食べるときは、「んま、んま」と言っています。ごはんに負けたー。
さて、前回の続きです。チェブラーシカでロシア語を学ぶ、その④でございます。
前回までの記事はこちら。
チェブラーシカの名前の秘密。〜「チェブラーシカ」でロシア語を学ぶ その①〜
名前だって変幻自在。〜「チェブラーシカ」でロシア語を学ぶ その②〜
いたずらで宣戦布告?〜「チェブラーシカ」でロシア語を学ぶ その③〜
シャパクリャクばあさんから意味不明な宣戦布告を受け、唖然としているゲーナたち。
そこへ、ライオンのおじさんの登場です。
レフ・チャンドル:Лев... Лев Чандр.(私はレフ…レフ・チャンドル。)
ゲーナ:Гена - Крокодил. Мои друзья.(ゲーナです、ワニです。私の友だちです。)
レフ:Дааа, а у меня нет друзей.(ああ、そして私には友だちがいない。)
この「レフ(Лев)」という名前、有名なところでは文豪レフ・トルストイや、楽器のテルミンの発明者レフ・テルミンなどの名前と同じですね。
ところが、調べてみたところ、なんとлевという単語はそのままライオンを意味するのだとか! トルストイやテルミンの名前、ライオンさんだったんですねー。英語圏でいうと、レオとかライオネルといった名前に近いでしょうか。日本人だと「ししお」さん、とか?(笑)
何にしても、ライオンのレフおじさん。わかりやすいです。ゲーナもきちんと自己紹介。
друг(友だち)という単語、複数形は不規則変化でдрузья。更にレフのせりふでは"у меня нет 〜"(私には〜がない)の構文で否定生格が適用され、複数生格のдрузейになっています。
ところで、この否定生格。つまり、ロシア語では「〜がある」という文で主格が使われるのに「〜がない」になると生格に格変化しちゃうという現象。最初見たときは、どうも納得がいかなかったのですが、よく考えたら日本語も「ある」は動詞なのに「ない」は形容詞だったりして、結局なんだか不条理ですね。
ことばって複雑なもので、でもふだん何気なく使っているものには、なかなか気づけなかったりするのかもしれません。
さて、閑話休題。続きです。
トービク:Я! Я буду с вами дружить!(僕が! 僕があなたと友だちになります!)
レフ: Ну что ж, прекрасно, теперь я буду не один.(ああ、いいね、もう私は独りではない。)
今までワンワン吠えるだけだった犬のトービクがいきなりしゃべるもんだから、「あ…あんた、しゃべれたの!?」ってなりますが、まあ気にしない。わりと甲高いかわいい声です。
レフのせりふ、ну что жというのは成句で、英語でいうとwellとかalright、OKにあたるフレーズだそうです。「ああ、そうだね」「いいね」とでも訳せましょうか。
теперьという語は「今は、今度は」という意味で、さっきまでと違って今は…というニュアンスを出すことができる語です。
ゲーナ:А вы знаете, сколько в нашем городе живёт таких одиноких, как Чандр и Тобик?
(知ってるかい、僕たちの町には、チャンドルやトービクのように独ぼっちの人が、どれくらいいるのか。)
И никто их не жалеет, когда им бывает грустно.
(そして、彼らが悲しんでいるとき、誰も彼らを気の毒に思わないんだ。)
去っていくレフとトービクを見つめながら、ぽつりとつぶやくゲーナ。
вы знаетеというのは、直訳すると「知っていますか?」ですが、ここでは語りの糸口に「ねえ、ところで」と注意を惹くような役割のフレーズだと思われます。
одинокийは「孤独な、単身の」という意味の形容詞ですが、名詞として「独身者、独りぼっちの人」を指すこともあります。ここでは後者の意味。сколькоを使って「独りぼっちの人が、どれだけいるんだろう」という文になっていますが、ここは反語的な意味で「独りぼっちの人が、数えきれないくらいたくさんいる」と言いたいのだと思います。
живёт таких одинокихで「こんなふうに独りで暮らす」、ここでтакой одинокийが対格?生格?に格変化しているのがよくわかりませんが…動詞житьが対格補語をとる、ということかしら。
никтоは「誰も〜ない」という意味、жалеетはжалеть「気の毒に思う」の三人称単数形なので、никто их не жалеетで「誰も彼らを気の毒に思わない。」
когдаは「〜するとき」で文をつなげる関係代名詞ですね。бывать грустноは「悲しんでいる」。つまり、誰かが独りぼっちでさみしい思いをしているとき、誰もその人に寄り添ってあげていない、ということをゲーナは嘆いているのですね。
チェブラーシカ:Я хочу помоть им.(ぼく、彼らを助けたい!)
ガーリャ:И я хочу, но как!?(私も助けたいわ、でも、どうやって!?)
ゲーナ:А я уже придумал! Их надо передружить!
(思いついた! 彼らには、友だちの橋渡しが必要なんだ!)
独りぼっちの人を何とかしてあげたい、と考えるチェブとガーリャ。
ゲーナのя уже придумалというせりふ、придуматьは完了体で「思いつく」なので、「あっ、今思いついた!」という意味になります。
их надо〜で「彼らには〜が必要だ」。передружитьという動詞が曲者でして、辞書には見当たらないことばなのですが、пере+дружитьと分けて考えると何とかなりそうです。пере-という接頭辞は、идтиとくっついてперейти=「向こうへ渡る、横断する」になるので、дружить「友だちになる」という動詞に「橋渡しをする、そういう状態にしてあげる」というニュアンスを加えるものと思われます。
つまり、独りぼっちの人に手を差し伸べて、友だちをつくる手助けをしてあげよう! ということになるのですね。
彼らの、この「孤独な人に手を差し伸べたい」という純真さ…。心が洗われるようで、何というか、水をさすような言葉を差し挟む隙がない、と言いましょうか。人として、大切なものを思い出させてくれるような気がします。
さて、独りぼっちの人が、友だちをつくるために…ゲーナたちに、何ができるのでしょうか?
短いですが、今日はここまでです。
次回をお楽しみに。