かあさんは雨女

語学と育児、その他いろいろ。

ひとを救うことば、追い詰めることば。—サッカー本田選手のTwitter炎上事件について

こんにちは。

娘と一緒に2時間お昼寝してしまって、ぜんぜん眠れません。

ま、こういう日があってもいいよね。

 

生後9ヵ月半になる娘おタマですが、「ずりばい」から「はいはい」への進化がなかなか完了せず、うつ伏せでプルプルとお尻を浮かせては力つきて「ぺちゃっ」となっています。

生まれたての子鹿みたいで、かわいいです。

お尻を浮かせた状態で前進するのが難しいみたいですね。がんばれ、おタマ!

 

さて、最近気になった話題を、おもむろに取り上げてみます。

サッカー日本代表本田圭佑選手のTwitterが炎上した件です。

 

私もfacebookにて友人のシェアで知り、コメント欄でアレコレと議論したのですが、改めて自分のためにまとめておきたいと思いましたので、ここに書き留めます。

(議論に付き合ってくださった方々、ありがとうございました。)

 

発端となった本田選手のツイートはこちら。

 

他人のせいにするな!政治のせいにするな!!生きてることに感謝し、両親に感謝しないといけない。今やってることが嫌ならやめればいいから。成功に囚われるな!成長に囚われろ!!

 

うーん、よさげなことを言っていますね。若者達を叱咤激励でしょうか。

これだけなら問題なかった(と私は思っている)のですが、このツイートの下にリンクが貼られていました。

若い世代の死因、自殺最多=15~39歳「深刻」―政府白書 (時事通信) - Yahoo!ニュース

日本の若者たちの間で、いま最も多い死因が「自殺」だそうです。

さもありなん。医学の進歩によって病気で亡くなる人が減り、事故も少なく安全な社会であることの裏返しだともとれますが、それでもやはりこの自殺率の高さは気になります。先進7カ国の中でも、日本がいちばん多いそうです。

 

この記事を見て、本田選手は上記のツイートをした…ということらしいのですが、

…???

 

くっつける記事間違ってないか?

 

まず、のっけからなぜ「人のせいにするな」「政治のせいにするな」なのだろうか。

自殺は「他人や世の中のせいにする」人が行うこと?

逆です。

自殺は「人のせいにすることができない人」がすることだと、私は思っています。

何か不遇なことが起こったり、嫌なことがあって気力を奪われたとき、「他人のせいにできる人」は、しぶとく生き残ります。

「あいつが悪いんだ、自分は悪くない、だから気にせず前に進もう」となるわけです。

ですが、ここで自分を責めてしまうタイプの人がいます。

すべて自分が悪い」。こうなってしまうと、思考がどんどんマイナス方向に向かっていきます。

それも、改善できる余地のあることならまだ良いのですが、自分を責め続け、思考がループし続けることで、自分に関係のないことまで自分のせいだと考えてしまうようになります。しまいには、「こんなに落ち込んでしまう自分が悪い」という思考になり、落ち込んでいること自体が更に落ち込む原因となっていきます。

 

こうした思考の行き着く先は、

「自分が存在することが悪い」。

つまり、「自分が死ねばいい」となってしまうのです。

 

こういった考え方は、まじめで勤勉な人が陥ってしまうことが多いです。

「人のせいにするな」「欠点は努力で改善しろ」と小さい頃から言われ続け、まじめに取り組み続けてきた人。

そういう人が、自分を追い込んで追い込んで「もう頑張れない」状態になってしまったときに、自殺という悲しいできごとが起こるのです。

そして、教育者としてこれを言うのは一層悲しいのですが、日本の学校教育のあり方がこの思考の流れに大きく寄与している…と、私は考えています。子どもの些細な間違いを責め、短所を責め、自己肯定感を下げてしまうような指導が、まだまだ日本の教育現場ではまかり通っています。

(ここ数年でかなり改善傾向になってきたとは思うのですが、それでも生徒を苦しめる教師をたくさん見てきました。)

 

精神的に参っている人に対してかけるべきは、「あなたは悪くない」という言葉です。

もっと、他人のせいにしてもいいんだよ。

誰にでも欠点はある。自分の欠点を受け入れていいんだよ、と。

 

それなのに、自殺の話題に結びつけて「人のせいにするな」なる言葉を投げつけることは、まさに傷口に塩をなすりつけ、傷と痛みを広げるが如き行為です。

 

生きてることに感謝、両親に感謝」なんて、言われなくてもわかっています。

だからこそ、まじめな人は「生きてることに感謝しないといけないのに、死にたいと思ってしまうなんて、なんて自分はダメな人間なんだ。なんて親不孝なんだ」と、更に自分を責めるループにはまってしまうのです。

この「思考を責める」という状態になってしまうと、本当に辛いです。考えてしまうこと、感じることは、自分では止められませんから。そこを責められても、どうしようもない。

だからやっぱり、行き着く先は「こんなことを考えてしまう自分は死ぬしかない」という発想です。

どん詰まりです。

どう転んでも、ここに行き着いてしまいます。

 

繰り返しになりますが、精神的に追い詰められている人に対してかけるべき言葉は、叱咤激励ではありません。

まず、自分自身を認めること。上手にできなくてもいいと、肩の力を抜くこと。少しは他人のせいにすること。そして、自分を追い詰めているものたちから少し離れて(逃げる、というのも良し)休むこと、です。

本田氏のツイートの中にも、「今やってることが嫌ならやめればいい」とあります。この言葉には賛成です。仕事でも学校でも、自分に過剰な負荷をかけるものから離れればいいのです。

ただ、まじめな人は、まじめだからこそ「辞めてはいけない」「逃げてはいけない」と考えてしまうので、その人を仕事や学校から無理にでも引きはがし、休ませるのは周囲の人間の役目です(自分で「やばい」と思って休むことができるなら、それに越したことはないですが)。「今やっていることをやめる」という発想は、鬱状態の人にとっては「生きることそのものをやめる」ということに直結してしまいかねず、危険です。

よく、過労自殺の事件などによせて「死ぬくらいなら、なんで辞めなかったんだ」という声を聞きますが、「辞める」という選択肢が見えないくらい視野の狭まった状態になっているから自殺するのです。

こうなった人間の視野を広げるのは、その人の思いに寄り添った共感と受容の言葉です。

なのに、心の折れてしまった人に更に厳しい言葉を投げかけ、死者に鞭打つようなことが、日常的に行われています。

 

私がこの件で一番危険だと思ったのは、本田氏のツイート自体もそうですが、このツイートへの反論をまとめたサイトでのコメント欄でした。

「本田選手はすごい努力家だ。頑張って今の地位を築いてきた人の揚げ足を取るな」

「未来ある若者への激励の言葉だ、どこが悪い」

などなど。(だいぶ、はしょって表現を変えていますが)

 

やはりサッカー日本代表選手の言葉は影響力が大きいです。

なんだか、傷ついて追い詰められている人に対して厳しい言葉をかけ、更に追い詰めるようなことが正当化されているように思えてなりません。

 

他人に対して厳しい言葉をかけるときって、とても気持ちがいいものです。それで相手が追い詰められて潰れてしまっても「あいつが弱かったんだ」で済ませることができます。自分はその結果に対して何の責任も負わず、「正しいことを言ってやった」正義の味方である自分に思いきり酔うことができます。言葉をかけるのはタダですしね。

 

その反面、辛い思いをしている人に寄り添う言葉を選ぶのはとても難しいです。相手の心に響かなくても、伝わらなくても、あきらめずに声をかけ続けること。受け入れ続けること。私も教師のはしくれですので、生徒の相談に乗るときなどに気をつけていることですが、なかなか実を結びませんし、徒労感でいっぱいになることも多いです。今でも「あの言葉はあの子に届いたのだろうか…」と思い出して落ち込むこともあります。

うまくいったと感じたことなど、ほとんどありません。

 

それでも、追い詰められた人の心の痛みを、少しでも和らげることのできる人間でありたいと思っています。

 

 

最後に、吉野弘の詩「祝婚歌」から、一部を引用しておきます。

 

正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい

立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい

 

私が結婚するとき、大学時代の恩師が贈ってくださった詩です。

これから暮らしを共にする夫婦への助言、という詩ですが、すべての人間関係に当てはまると思っています。

「立派でありたい」「正しくありたい」を他人に対して、そして自分自身に対して押しつけてしまい、そのプレッシャーが限度を超えたときに、悲劇は起こります。

自分にできることを、自分にできる範囲でやって、それで生きていけるのが、しあわせ。

そう思ってみんなが生きていければ、いちばんいいなあ。

と、思うのです。

 

感情にまかせて書きなぐりましたので、同じことの繰り返しばかりで、だらだらと長い文章になってしまいました。

ひとまず、もっと若者が希望を持って生きていける日本になるように、願いをこめて投稿します。

 

追記。

この問題については、色々な人がコメントをしたりまとめが作成されたりしています。

私もこの記事を書くにあたり、「自己責任論」という観点でまとめた下記のブログを参考にいたしました。論点がすっきりしていて、たいへん読みやすい記事です。以下にリンクを貼っておきます。シェアしてくれた友人に感謝。

 

hirokimochizuki.hatenablog.com

 

 

道徳の授業って、なんだ。

こんにちは。暖かくなってきましたね。

私は花粉症にやられております…。

元はそんなにひどくなかったのに、産後体質が変わって悪化してしまいました(泣)。

点鼻薬と目薬が欠かせません。

 

とはいえ、暖かくなるのは嬉しいものですね。

今日もお散歩日和、春の陽気の中を娘とぶらぶら散歩しました。

関西出身なので、4月に入ったらすぐお花見!といきたい気分ですが、

現在私が住んでいる北陸では、桜はもう少し先みたいです…。

先日は満開の梅の花を鑑賞してきました。桃、桜と、じっくり楽しみたいものです。

 

さて、色々と書きたいことがあるものの、なかなかじっくりと時間がとれず…。

ゆるりとした更新頻度ですが、お付き合いいただけると幸いです。

 

今日は、かねてから気になっていた話題がトップニュース入りしていましたので、

思うところを書いてみようと思います。

<道徳教科書検定>「パン屋」怒り収まらず (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

教科化に伴い、道徳の教科書が初めて検定にかけられました。

その検定を通して、「国や郷土を愛する態度」を養うため、読み物教材に登場する「パン屋」が

「和菓子屋」に変えられた、というニュース。

 

現役の公立学校教員としては、何というか、ぶったまげましたね。

物語にパン屋が登場するくらいでケチをつけているのもワケわかめですが、

それを「和菓子屋」に変えただけで、検定通っちゃうのかよ! …と。

いったい文部科学省は、日本文化を何だと思っているんだー。

「国や郷土を愛する態度」を育てたかったら、ちゃんと独立した項目に伝統芸能

工芸品を登場させて、それに関わるプロの職人さんなんかをきちんと主役にして、

じっくり子ども達に味わってもらえるようにしないと。

 

で、この「にちようびのさんぽみち」という読み物、どんなものか調べてみました。

さすがに本文そのものを読むことはできませんでしたが、学習指導案ならすぐにヒットしましたよ。

ググればすぐ出てきますが、いちおうリンクを貼っておきますね。

https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/detail/80086/

(※学習指導案というのは、これから行われる授業のあらましをざっと説明したもの、

 いわば授業の設計図です。学習目標や展開のしかたなどが書かれています。

 本来は教員が作成するものですが、上記リンクは教科書会社が「指導案例」として

 提案しているもののようです。これを授業で丸々使うこともできますね。)

 

この指導案の「主題設定の理由」には、こんな記述があります。

「家庭や学校をとりまく郷土の自然、住む人々に目を向け、人々との触れ合いを深めることで、

 郷土に親しみをもって生活しようとする気持ちを育てたい。」

どうやら、自分の住む街を歩き、そこに住む人達と交流する「けんた君」のお話から、

「自分の住む街の好きなところ」について話し合う…という授業が想定されているようです。

 

うーん、いいですね。郷土愛。住む街の魅力。地域の人たちとの交流。

うん。

和菓子屋さん関係ないよね?

 

なんでパン屋さんじゃダメなんだろう。

「自分の住む街」に感じる魅力を語るのに、パン屋さんが邪魔で、

和菓子屋さんにしないといけないと思う根拠は何なんだろう。

 

この論理でいくと、けんた君の家の近所に外国の方が住んでいてもマズいわけですよね。

国に対する郷土愛を育てるためには、日本のものしか許されないわけだから。

お隣に住んでいる英国紳士に紅茶とスコーンをごちそうになって、どんなに心温まる交流をしたとしても、

日本男児に緑茶とどら焼きをもらった描写に差し替えないといけない、わけだ。

 

うーん、これは、思っていたよりも根深い問題かもしれないぞ。

 

日本に住んでいると、近くに住んでいるのは日本人ばかりだと思ってしまいがちですが、

外国人労働者がたくさん移住してきている地域も少なくありません。

で、その外国人の子どもの中には、公立学校に通う子も当然いるわけです。

そういう子たちと道徳の授業をするとき、「自分の住む街を愛する」という主題ならまだわかりますが、

なぜそこで、外国から来たものを排斥して、日本固有のものだけを登場させる必要性があるのだろうか。

(そもそも「和菓子」が本当に日本固有の文化なのか…?という点についても怪しいですが、

 長くなるのでこちらの考察は割愛します)

 

郷土愛って、そういうことじゃないだろう。

そんな教材でもって「国や郷土を愛せ」と言われたって、それはもはや教育とは呼べないだろう。

 

そもそも、子ども達がいま住んでいる場所が必ずしも「郷土」で、「愛する」べきものだなんて、

大人が教え込んでいいものなのだろうか。

子どもは住む場所を選べません。自分の街を好きになれない子だっているかもしれません。

(まあそんなことを言ったらキリがないようにも思いますが…。)

 

こういう「〜を愛する心を育てる」という主題、どうにも好きになれないのです。

だって、愛するかどうかは個人の自由でしょ。

「〜が素晴らしいと思った」という体験記を読んで、本当だ素晴らしいなあ、と思うのも、

いや、私にはその素晴らしさがわからない、と反発するのも自由なのです。

大人にできるのは、価値観を提示することだけなのですから。

 

世間一般では、どうやら「道徳」とは「正しい価値観を教え込む」ものだと思われているようなのですが、

「道徳」の本来あるべき姿は、そうではないと私は思っています。

教師は読み物や体験談を通じて「こんな考え方があるよ、どう?」と提示し、

「うーん…確かに」「でも、こういうふうにも考えられるよ」と、様々な意見を子ども達に発言してもらう。

自分の持っていた価値観が揺れる子、揺るぎない信念を新たにする子、色々な子がいますが、

どの生徒もその1時間の間に、よ〜く考えて自分の意見をまとめ、他の子の意見を聴く。

そういう時間が大切なのです。

 

ただ、そういう話し合いの深まる授業をコーディネイトするのは、たいへん難しいことなのです。

だから多くの先生は「いじめはやめましょう」とか、「人のためになることをしましょう」とか、

安易で、わかりやすい結論を押し付ける方向にいってしまう。そのほうが楽ですもんね。

 

でも、そうじゃないんですよ。

 

「いじめ」に関していえば、「なぜいじめはいけないのか」を子どもたちに議論させるべきなのです。

で、その中で「ムカつく奴はいじめたっていいじゃん!」という意見が出てくるとすれば、

教師がそれを言った生徒を叱りつけるのではなく、「今こんな意見が出たけど、どう?」と問いかけ、

「私はそう思わない」という意見が他の生徒から、自然と出てくるのが理想なのです。

 

多分、世の中の大人たちの多くは「道徳の授業」に対して、あまりいいイメージを持っていません。

それは、昔から道徳の授業が軽視されてきたからです。

道徳=「きれいごとを押しつけられる時間」と考えている人が多いからです。

繰り返しますが、子どもたちの価値観に問いかけ、話し合いを促す授業をつくるのは、

たいへん難しいです。準備にも時間がかかります。

だから、「価値観を教え込む」形にしてしまっている教師がたくさんいるのです。

「こう考えなさい。こう行動しなさい」と教えて、それでおしまい。楽ちんですね。

ひどい人になると、「道徳めんどくせえなぁ。次の道徳の時間、ゲームでもさせとくか」

というふうになってしまうことも、よくあります。

(皆さんの中にも、「道徳」のはずなのに違うことをしていた時間…という記憶、

 ありませんか?)

 

道徳の時間とは、子どもたちが価値観を形成するための、大切な時間です。

教師と生徒、勉強ができる子とできない子、いい子と悪い子、というくくりなど関係なく、

みんなが平等にそれぞれの考え方を共有し、深め合うことができる貴重な時間なのです。

 

だから、私は道徳の教科化には大賛成です。

「道徳の授業で成績をつけるなんて」という意見もありますが、

道徳の評価は、数字や点数でつけるのではありません。

まだ実施されていないので、具体的にどんなものになるかはわかりませんが、

恐らく、「どれだけ積極的に授業に参加して、考えを深めることができたか」という基準で、

生徒一人ひとりに対しての評価が実施されると思います。

他の授業と同じです。参加しないで寝てる子は評価が下がるし、一生懸命考えた子はきちんと評価される。

そういうものになる…、なればいいな、と思っています。

道徳を「教える」=「サボる」教師が、少しでも減ればいいな、と。

 

さて、毎度、長々と語ってしまいますね。

現場からしばらく離れていますが、こうして教員の仕事について久々にじっくりと考えることができ、

何やら達成感を感じております。

もし、ここまで読んでくださった奇特な方がいらっしゃれば、本当にありがとうございます。

あくまでも、いち教員、いち個人としての意見をまとめたものですので、

もし異論、反論等ございましたら、お気軽にコメントいただければ幸いです。

 

すっかり夜も更けてしまいました。

明日も子育てがんばるぞー。では、また。

教師の仕事のハードさと、やりがいについて。

お久しぶりです。マミです。

暖かくなってまいりましたね。

私はのんびりと育児休業中ですので、世の中の流れとはあまり縁のない生活をしておりますが、

胸にコサージュをつけた学生さんを街で見かけて「卒業式か…」とふと気づくなど、しております。

 

先日は、2年前まで勤めていた中学校から封書が届きました。

(長くなるので細かい説明は省きますが、筆者は2年前の春から現任校に採用され、

 今年度から育児休業を取得して今に至ります。)

あら珍しい、何かしらと封を開けてみましたところ、

当時1年生を担任していたのですが、その生徒達が今春卒業しましたという報せとともに、

お手紙が何通か同封されておりました。

 

すっかり忘れておったのですが、その学校では毎年、卒業前の生徒が

お世話になった先生(何人でもよい)に手紙を書くという習わしがあり、

大抵の子は今の担任の先生とか、部活の顧問の先生に書くのですが、

私のことをわざわざ思い出して書いてくれた生徒もいたのだなあ…と、じんわり心が温かくなりました。

 

中でも、学力的にちょっと大変で、いつも襟首つかんで補習に行かせていた子からの

「高校合格しました!!1年の時はありがとうございました」というメッセージには、

思わず目頭が熱くなっちゃいました。まあ、立派になって…。

時が止まったような生活をしていても、かつての教え子の成長を感じることができるなんて、

なんてしあわせな時間。本当に、これがあるから、教師の仕事はやめられません。

書いてくれた子達、そして私のもとまで手紙を届けてくださった先生方、

本当にありがとうございました。

 

私が現在、予定している休業期間は3年間。

その間に次の子が産まれる可能性もありますが、いずれにしても一番年下の子が3歳になる日まで、

教員は育児休業を取得することができます。

またいずれ改めて書こうと思いますが、公立学校教員の仕事は本当にハードなもので、

その大変さに反して勤務実態、待遇は目もあてられないほど「ひどい」です。

それでも、やっぱり、この仕事に戻っていきたいな。楽しかったな。と思う、今日のような日もあれば、

子どもを育てながら、果たしてやっていけるのか…? と不安になる日もあります。

 

何しろ、部活動顧問をしていれば、週末も休めない日が続きます。

平日は16時45分までの勤務のはずですが、この時間通りに帰ることのできた日は

数えるほどしかありません。とうてい終わるはずもない量の業務が降りかかってきます。

そして、勤務時間外の労働に対する報酬はありません。

 

※厳密には、教員の仕事の特殊性を鑑みて、基本給に4%だけお給料が上乗せされています。

 たった4%。これだけで、教員の時間外労働は「定額使い放題」なのです。

 

生徒が万引きすれば一緒にお店まで行き、家出すれば深夜まで保護者とともに捜索します。

「勤務」と「私生活」の線引きすら曖昧な毎日。

(大変な学校だった、というのも要因の一つですが。)

いま思えば「子どものために、無償でこんなに働いている私」に酔っていたようにも思います。

そこに、本当に、戻っていこうとしているのか?

私と、ナコ太さんと、おタマの、平和な家庭生活を、働きながら守っていけるのか?

 

まだしばらくは、自問する日々が続きそうです。

このブログにも思うところを綴りながら、これからも考えていこうと思います。