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かあさんは雨女

語学と育児、その他いろいろ。

道徳の授業って、なんだ。

こんにちは。暖かくなってきましたね。

私は花粉症にやられております…。

元はそんなにひどくなかったのに、産後体質が変わって悪化してしまいました(泣)。

点鼻薬と目薬が欠かせません。

 

とはいえ、暖かくなるのは嬉しいものですね。

今日もお散歩日和、春の陽気の中を娘とぶらぶら散歩しました。

関西出身なので、4月に入ったらすぐお花見!といきたい気分ですが、

現在私が住んでいる北陸では、桜はもう少し先みたいです…。

先日は満開の梅の花を鑑賞してきました。桃、桜と、じっくり楽しみたいものです。

 

さて、色々と書きたいことがあるものの、なかなかじっくりと時間がとれず…。

ゆるりとした更新頻度ですが、お付き合いいただけると幸いです。

 

今日は、かねてから気になっていた話題がトップニュース入りしていましたので、

思うところを書いてみようと思います。

<道徳教科書検定>「パン屋」怒り収まらず (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

教科化に伴い、道徳の教科書が初めて検定にかけられました。

その検定を通して、「国や郷土を愛する態度」を養うため、読み物教材に登場する「パン屋」が

「和菓子屋」に変えられた、というニュース。

 

現役の公立学校教員としては、何というか、ぶったまげましたね。

物語にパン屋が登場するくらいでケチをつけているのもワケわかめですが、

それを「和菓子屋」に変えただけで、検定通っちゃうのかよ! …と。

いったい文部科学省は、日本文化を何だと思っているんだー。

「国や郷土を愛する態度」を育てたかったら、ちゃんと独立した項目に伝統芸能

工芸品を登場させて、それに関わるプロの職人さんなんかをきちんと主役にして、

じっくり子ども達に味わってもらえるようにしないと。

 

で、この「にちようびのさんぽみち」という読み物、どんなものか調べてみました。

さすがに本文そのものを読むことはできませんでしたが、学習指導案ならすぐにヒットしましたよ。

ググればすぐ出てきますが、いちおうリンクを貼っておきますね。

https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/detail/80086/

(※学習指導案というのは、これから行われる授業のあらましをざっと説明したもの、

 いわば授業の設計図です。学習目標や展開のしかたなどが書かれています。

 本来は教員が作成するものですが、上記リンクは教科書会社が「指導案例」として

 提案しているもののようです。これを授業で丸々使うこともできますね。)

 

この指導案の「主題設定の理由」には、こんな記述があります。

「家庭や学校をとりまく郷土の自然、住む人々に目を向け、人々との触れ合いを深めることで、

 郷土に親しみをもって生活しようとする気持ちを育てたい。」

どうやら、自分の住む街を歩き、そこに住む人達と交流する「けんた君」のお話から、

「自分の住む街の好きなところ」について話し合う…という授業が想定されているようです。

 

うーん、いいですね。郷土愛。住む街の魅力。地域の人たちとの交流。

うん。

和菓子屋さん関係ないよね?

 

なんでパン屋さんじゃダメなんだろう。

「自分の住む街」に感じる魅力を語るのに、パン屋さんが邪魔で、

和菓子屋さんにしないといけないと思う根拠は何なんだろう。

 

この論理でいくと、けんた君の家の近所に外国の方が住んでいてもマズいわけですよね。

国に対する郷土愛を育てるためには、日本のものしか許されないわけだから。

お隣に住んでいる英国紳士に紅茶とスコーンをごちそうになって、どんなに心温まる交流をしたとしても、

日本男児に緑茶とどら焼きをもらった描写に差し替えないといけない、わけだ。

 

うーん、これは、思っていたよりも根深い問題かもしれないぞ。

 

日本に住んでいると、近くに住んでいるのは日本人ばかりだと思ってしまいがちですが、

外国人労働者がたくさん移住してきている地域も少なくありません。

で、その外国人の子どもの中には、公立学校に通う子も当然いるわけです。

そういう子たちと道徳の授業をするとき、「自分の住む街を愛する」という主題ならまだわかりますが、

なぜそこで、外国から来たものを排斥して、日本固有のものだけを登場させる必要性があるのだろうか。

(そもそも「和菓子」が本当に日本固有の文化なのか…?という点についても怪しいですが、

 長くなるのでこちらの考察は割愛します)

 

郷土愛って、そういうことじゃないだろう。

そんな教材でもって「国や郷土を愛せ」と言われたって、それはもはや教育とは呼べないだろう。

 

そもそも、子ども達がいま住んでいる場所が必ずしも「郷土」で、「愛する」べきものだなんて、

大人が教え込んでいいものなのだろうか。

子どもは住む場所を選べません。自分の街を好きになれない子だっているかもしれません。

(まあそんなことを言ったらキリがないようにも思いますが…。)

 

こういう「〜を愛する心を育てる」という主題、どうにも好きになれないのです。

だって、愛するかどうかは個人の自由でしょ。

「〜が素晴らしいと思った」という体験記を読んで、本当だ素晴らしいなあ、と思うのも、

いや、私にはその素晴らしさがわからない、と反発するのも自由なのです。

大人にできるのは、価値観を提示することだけなのですから。

 

世間一般では、どうやら「道徳」とは「正しい価値観を教え込む」ものだと思われているようなのですが、

「道徳」の本来あるべき姿は、そうではないと私は思っています。

教師は読み物や体験談を通じて「こんな考え方があるよ、どう?」と提示し、

「うーん…確かに」「でも、こういうふうにも考えられるよ」と、様々な意見を子ども達に発言してもらう。

自分の持っていた価値観が揺れる子、揺るぎない信念を新たにする子、色々な子がいますが、

どの生徒もその1時間の間に、よ〜く考えて自分の意見をまとめ、他の子の意見を聴く。

そういう時間が大切なのです。

 

ただ、そういう話し合いの深まる授業をコーディネイトするのは、たいへん難しいことなのです。

だから多くの先生は「いじめはやめましょう」とか、「人のためになることをしましょう」とか、

安易で、わかりやすい結論を押し付ける方向にいってしまう。そのほうが楽ですもんね。

 

でも、そうじゃないんですよ。

 

「いじめ」に関していえば、「なぜいじめはいけないのか」を子どもたちに議論させるべきなのです。

で、その中で「ムカつく奴はいじめたっていいじゃん!」という意見が出てくるとすれば、

教師がそれを言った生徒を叱りつけるのではなく、「今こんな意見が出たけど、どう?」と問いかけ、

「私はそう思わない」という意見が他の生徒から、自然と出てくるのが理想なのです。

 

多分、世の中の大人たちの多くは「道徳の授業」に対して、あまりいいイメージを持っていません。

それは、昔から道徳の授業が軽視されてきたからです。

道徳=「きれいごとを押しつけられる時間」と考えている人が多いからです。

繰り返しますが、子どもたちの価値観に問いかけ、話し合いを促す授業をつくるのは、

たいへん難しいです。準備にも時間がかかります。

だから、「価値観を教え込む」形にしてしまっている教師がたくさんいるのです。

「こう考えなさい。こう行動しなさい」と教えて、それでおしまい。楽ちんですね。

ひどい人になると、「道徳めんどくせえなぁ。次の道徳の時間、ゲームでもさせとくか」

というふうになってしまうことも、よくあります。

(皆さんの中にも、「道徳」のはずなのに違うことをしていた時間…という記憶、

 ありませんか?)

 

道徳の時間とは、子どもたちが価値観を形成するための、大切な時間です。

教師と生徒、勉強ができる子とできない子、いい子と悪い子、というくくりなど関係なく、

みんなが平等にそれぞれの考え方を共有し、深め合うことができる貴重な時間なのです。

 

だから、私は道徳の教科化には大賛成です。

「道徳の授業で成績をつけるなんて」という意見もありますが、

道徳の評価は、数字や点数でつけるのではありません。

まだ実施されていないので、具体的にどんなものになるかはわかりませんが、

恐らく、「どれだけ積極的に授業に参加して、考えを深めることができたか」という基準で、

生徒一人ひとりに対しての評価が実施されると思います。

他の授業と同じです。参加しないで寝てる子は評価が下がるし、一生懸命考えた子はきちんと評価される。

そういうものになる…、なればいいな、と思っています。

道徳を「教える」=「サボる」教師が、少しでも減ればいいな、と。

 

さて、毎度、長々と語ってしまいますね。

現場からしばらく離れていますが、こうして教員の仕事について久々にじっくりと考えることができ、

何やら達成感を感じております。

もし、ここまで読んでくださった奇特な方がいらっしゃれば、本当にありがとうございます。

あくまでも、いち教員、いち個人としての意見をまとめたものですので、

もし異論、反論等ございましたら、お気軽にコメントいただければ幸いです。

 

すっかり夜も更けてしまいました。

明日も子育てがんばるぞー。では、また。